兼田の生きた証

 

 その支店は規模が小さく、処理能力の低い職員が一人でも居ると運営そのものに差し支えるため、比較的優秀な職員が配属されるのがそれまでの通例だった。

 しかしその年は、あろうことか中核となるべき40代の職員二人が揃いも揃って機能せず、大変だというのが私の耳にも届いたので、できれば行きたくない支店だった。

 そして私は、その年の異動でそこに配属された。そして、最低でも一人は動くだろうと誰もが疑わなかった例の二人は、そのまま残っていた。その支店は、他の支店を生かすために切り捨てられたも同然だった。

 兼田は、その二人の内の一人だった。

 身なりに無頓着で、格闘技をやっているという割に体は弛み、いつも何かに怯えている様子だった。

 仕事の方はと言えば、一人での外回りはおろか、来客の対応をさせることもできないため、電話の(といっても、他の職員の留守番的な)対応だけをやってもらうしかなかった。そして、それ以外の時間は、自社の広報誌や、定期的にアップされる人事速報をくまなくチェックするというのが日課だった。だから、その割を食っている他の職員からは疎まれ、課長にとっても悩みの種だった。

 かといって、何も仕事を持たせないのは〇〇ハラスメントになるらしいため、一応、他の職員と同じ量の仕事を与えられ、難しい仕事は私がフォローするということとなっていた。

 兼田は時々、神妙な顔つきで、恐る恐る私のところに仕事の相談にやってきた。

 何が分からないのかも、よく分からないことが殆どだった。

 それは俺がやってやるよと言って引き揚げると、兼田は安心した表情を見せた。

 最初の飲み会の席で、「俺ね、あんたの大腿四頭筋見て、この人只者じゃねえと思ってたよ」などと変なことを言うので、「馬鹿じゃねえの」とか言い返して笑い合った。

 何だか憎めない奴だった。

 

 そんな兼田も、かつては職場全体の若手を代表する優秀な職員だった。

 優秀だったがために、この職場の核心となる部所に配属され、そこでの常軌を逸する多忙さとパワハラによって、それまで積み上げてきたもの、それまで自分を支えてきたもの、そして、その先にあったはずの輝かしい将来、それら全てを失い、見る影もなく廃人のようになってしまったのだ。

 兼田は、心も体も、頑張る、踏ん張るということが全くできなくなっていた。 

 それでも兼田は、その後十数年もの間、他に希望を探しながら、他の職員に疎まれていることを知りながらも、休職することなく出社し続けていたに違いなかった。

 そんな兼田を、どうして無下にできるだろうか。

 兼田を悪く言う全ての職員に言ってやりたかった。おまえは、その兼田の足元にも及ばないのだと。

 

 彼はうつ病の薬を常用していたため、眠れなくなって遅くまでゲームをしていたことが多かったらしく、職場でもよく眠そうにしていた。

 その年度の半分が過ぎようとしていた頃、兼田の様子がおかしくなってきた。

 全く寝ることができなくなってしまったという。

 眠りたいのに眠れないのは、地獄の苦しみに違いない。

 体も休まらないし、寝ている間は考えなくて済むことから解放されることもない。

 その状態が何日も続いた。

 そして、指定の診療所を受診することとなった。

 その診療所の医師の判断によって、兼田は出勤停止となった。

 〇月13日、金曜日のことだった。

 私は、兼田が、「何か俺、変なこと考えちゃうんですよね」と、冗談ぽく漏らしていたことを思い出していた。

 兼田の両親は既に他界し、兄弟も居ない。

 近しい親族も居ないらしい。

 親しい友人も居ないようだった。

 昔の兼田を知る職場の同僚で、兼田のことを気にかけている者は沢山いた。しかしそれも、職場の中だけの関係だった。

 兼田がこれまで職場に出続けていたのは、それが唯一の社会との接点だったからだ。

 職場で働いていることが、自分が存在するための、自分が生きるための、たった一つの細い細い接点だったのだ。

 もしそれが途切れてしまったら‥

 課長には相談しなかった。考え過ぎだと言われてしまえば、私は何もできなくなるからだった。

 私は、自分がどうすべきか一晩考えた。

 私は管理者ではなかったが、管理者を補佐する立場だったため、一般の職員との間に一定の距離を保つ必要があった。

 だから、自分が兼田の私生活に踏み込んでいいかどうか迷っていた。

 そうすることによって兼田を追い込んでしまうことにもなりかねないとも考えた。

 でも最終的に、自分の思い過ごしであればいいと願いつつ、人の命がかかっているのだからと決心し、その翌日の土曜日に、いつものランニングコースから兼田の住まいの最寄り駅に寄り、そこから電話を架けた。

 留守電に切り替わったので、ランニングで近くまで来たので、元気かと思って電話をした。よかったら昼メシでも食べないかと、メッセージを録音した。

 私は駅前のマックで、折り返しの連絡を待ったが、夕方になっても連絡が来なかったので、帰宅することにした。

 翌、日曜日にも電話をしたが、同じだった。

 月曜日、そこではじめて課長に相談しようと決めていたが、よりによって課長はインフルエンザで一週間の出勤停止となった。

 その夜、私は兼田の自宅を訪れることにした。

 兼田の自宅は、その駅から20分以上も歩く、人通りも少ないとても寂しい場所に建っていた。そこは、兼田が以前、家賃3万円なんですよと、安さを自慢していたアパートだった。

 兼田は既に係長クラスの地位にあったので、独身なら優雅な暮らせるくらいの収入はあったはずなのに、何故こんなに不便で寂しく、しかも安いアパートに住む必要があるのかと不思議に思った。

 その部屋には照明が灯り、エアコンの室外機も動いていた。

 私は、自分の思い過ごしだったと安堵して、家路に就くことにした。

 兼田が元気にしていることは分かったし、しつこく電話することは避けた。

 その一週間後に課長が職場復帰したとき、一応話は入れておいた。

 そして、その約一週間後、今度は、総務から書留で兼田宛に郵送した文書が返戻となった。

 兼田は自宅療養しているはずだったので、それはおかしいということになり、総務課長とうちの課長が二人で兼田の自宅を訪問することになった。

 呼び鈴を押しても応答が無かったが、玄関の鍵は開いていたらしい。

 兼田は、脚立に道着の帯を掛け、そこに首を吊った状態で発見された。そして救急搬送され、病院で死亡が確認された。

 死亡推定時刻は、〇月13日頃だった。

 兼田は、出勤停止となったその日に、命を絶っていたのだ。

 私が兼田の家に行ったとき、彼は既に亡くなっていたのだ。

 私は、自分だけが兼田の苦しみを知りながら、それを救ってやることができたかどうかは別としても、そうしようとすることさえできなかったことを悔いた。

 悔いても悔やみきれなかった。

 私には、兼田が自死することを止めることはできなかった。

 それを止める機会があったとしても、それが兼田自身にとって良いことなのかも分からなかった。

 何の希望も無く、自分が存在しているかどうかも分からないほど孤独だったとしたら、人は生きてゆくことができるだろうか。

 兼田が、死ぬことでしかその苦しみから逃れることはできなかったとしたら、それを止めることなどできるだろうか。

 それでも一言、独りぼっちではないことを伝えてやりたかった。

 少なくとも、あの日の夜に安心して帰宅してしまわなければ、もっと早く兼田を見つけてやれたのだ。二週間も、あの寂しい部屋で独りぼっちにしてしまわずに済んだのだ。

 兼田すまんとしか言えなかった。

 なぜ兼田がこのアパートを選んで住んでいたのか、痛いほどわかってしまった。

 

 職場に残された兼田の遺品を整理していると、かつて何かの表彰を受け、幹部と一緒に写真に納まる別人のように凛々しい兼田の姿があった。

 その写真には、受賞者を代表して発表する謝辞の原稿も添えられていた。

 そこには、この職場を背負って立とうとする若者の、高い使命感と決意が述べられていた。

 立派だった。

 

 兼田は、司法解剖の末に焼かれ、骨となって遠い親戚に引き取られていった。

 そして今は、郊外の海を見下ろす丘の上の墓地で、母親と一緒に眠っている。

 その墓は、兼田が母親のために自分で建てた墓だった。

 兼田はやっと、独りぼっちではなくなった。

 そこは偶然にも、私がかつて住んでいた小さな町の、当時飼っていた犬の散歩コースにあった。

 

 

 兼田には、家族と呼べる者が一人も居なかった。

 だから、これが表沙汰にされることはなかった。

 職場における過労やパワハラが、一人の人間の人生を、時にはその家族の人生をも踏みにじってしまうことを知ってほしい。

 それが発生する原因は、人間の尊厳を軽んじているから、それ一点に尽きる。

 パワハラは、それが刑法の規定にあるかどうかは別として、卑劣な犯罪に他ならない。そして、雇う側は、一人一人の人間の命を預かっているということの本当の意味を認識すべきだ。