極端な例だが、私が子供の頃は、今では考えられないほど不衛生な生活環境だった。
私は家に居るのが苦痛だったので、毎日周囲が暗くなるまで外で泥だらけになって遊び、帰宅しても手を洗わないのは当たり前で、風呂を炊くのも毎日ではなく、そのお湯も毎回入れ替えではなかった。
家の中も半分外みたいな感じで、ゴキブリやネズミなど当たり前で、いつの間にか押入れの天井裏に鳥が巣を作っていたなんてこともあった。
上には上が居て、同級生の家は何とビニールハウスで、中はまるでモンゴルのゲルだった。当時は夏でも今のように暑くなかったので、それもできたのだろう。
春は土手に生えるオオイタドリの新芽を摘んで、洗わずに剥いてよく食べた。
空き瓶を拾い集めて酒屋さんに買ってもらい、その小遣いを握りしめて、今は無き「ぶんてこ」という名の駄菓子屋に行き、通称てこ爺が素手で渡すあんこ玉や酸イカを食べて、よく腹を壊した。
道に落ちているものを食べるのは普通で、なぜか友人と競い合い、車にひかれてタイヤの跡がくっきりついたパンやクッキーの残骸を食べて勝ち誇っていた。
こうやって書いていても恥ずかしいほど、当時は不潔だった。
そのおかげかどうか分からないが、体だけは丈夫だった。
殆ど風邪もひかず、学校を休んだことも無く、インフルエンザにかかったことも一度も無い。
今、当時のようなことは当然できないしお勧めもしないが、衛生的な環境で育った今の子供たちのウイルスや細菌に対する耐性の低さは深刻だと感じていた。
そしてこの度の新型コロナである。
これまでおぼろげにしか想像できなかったウイルスや細菌の拡散の仕方が、ある程度の具体性を帯びるようになった。そしてウイルスだけではなく、私たちは目に見えない飛沫を常に浴びていることを知ってしまった。
お恐らく、これが収束しても、それ以前のように戻ることはないだろう。
これまで以上に、目に見えないものに敏感になるのは目に見えている。
そして、それが度を過ぎればどうなるかも目に見えている。衛生的な環境を手に入れることと、ウイルスや細菌に対する耐性を失うことは、相反関係にあると言えるのだから。
そして、見えないものを恐れ過ぎれば、精神面にも少なからず影響するだろう。
人と人とが実際に面と向かって話すことは大切だが、対面していてもマスクをしていると互いの表情がわからず、真意が伝わらずにギスギスして喧嘩になりかけたりして焦る。
何だかとても寒々しい世の中になってしまうような気がしてならない。
要らぬ心配だったと思える未来であってほしいと願っている。