スローな生活様式のすすめ(海の幸編)

 

 明確な四季のある日本は、自然の恵みに溢れている。特に、冬が明けて寒さが緩む春には、それまで眠っていた生物が一斉に命を繋ぐ活動を始める。そして人間も、その恩恵に少しだけ与る。

 昔から、日本人にとって春はとても待ち遠しく、とても忙しい季節だ。 

 

 私の場合、年明けぐらいから海水温の下がり具合が気になりはじめ、順調に下がれば期待に胸が膨らみ、下がる気配のない年はがっかりする。

 そして、寒さが緩みはじめると海中の様子が気になり、岸壁などから覗き込んでは、その成長具合をチェックする。そして、絶好のタイミングで大風が吹くのを待ちわびる。

 ビンビンに南風の吹いた日の翌朝、大きめのビニール袋数枚とハサミを持ち、万を辞して予め目星をつけていた場所へ車を走らせる。

 狙い通りその場所には、漁期を過ぎてしまえば漁師さえ採ることのできない、養殖とは比較にならないほど肉厚で歯応えのある、ほんの少し前まで岩に着いていたであろう新鮮な天然ワカメが大量に打ち寄せられている。

 何も知らない人からすればただのゴミの山も、知る人からすれば宝の山だ。

 海の中に入って採ると密漁になるが、浜に打ち寄せられたワカメを拾うのは、今のところ此処では問題とされていない。

 できるだけ状態の良いものを選び、メカブと先の固くなった部分を切り落として、ひたすら宝を収拾する。切り落とした部分は、暫くすると溶けて海に帰る。

 後処理と持ち運びの手間を考えて砂を洗い落とし、できるだけ水を抜いて持ち帰る。

 その途中、訝しげに覗き込む漁師さん達に出くわしても慌てることはない。「何処其処にめっちゃ寄ってますよ」と教えてあげれば納得して去って行く。

 持ち帰ったワカメは、できるだけ大きな鍋や釜で、色が変わって柔らかくなる程度にサッと茹で、直ぐに上げて流水で冷める。それを延々と繰り返して全部やりきる。

 今度はそれを、ニトリで買った一番大きな物干し用のピンチハンガー(50~60ピンチ)二つに、大きなものは茎のところで半分に裂き、ワカメ同士がくっつかない程度の間隔を空けて干してゆく。

 保存のため完全に乾燥させる必要があるが、天気の良い日なら一日で干し上がる。あとは取り込み、かさ張らないよう麻紐などで括り、袋に詰める。

 それを二回ほど繰り返せば、一年間、天然のワカメが味わえる。

 

 

 ちょうどその頃になると、大きく潮が引く時間帯が夜中から昼間に移行し、ゴールデンウィークに掛けてそのピークを迎える。

 そして、潮が最も大きく動く大潮後の中潮を挟んだ数日の、更に干潮を挟んだ数時間だけ、一年間、昼間に顔を出すことの無かった海底が姿を現す。年に一度の潮干狩りの季節である。

 その場所では、粒よりの天然アサリが、誰に憚ることなく採ることができる。自生しているアサリだから、もちろん無料だ。そして、土日や祝日なら付近の駐車禁止も一時的に解除されるから、駐車料金もかからない。

 天然物だから、自然のサイクルやそれまでの気候によって状況は大きく変わる。また、それまでの人の出入りによって採れる場所も変わる。

 何処に入るかは、直前の海底の様子(アサリの呼吸のための穴や、既に掘られた形跡の有無)や、先に入っている人の採れ具合など、その時の状況によって判断する。そして、まだ引き切る前の水があるうちの方が堀りやすいから、早めに現場に入る。

 水があるうちは手で探る方が効率がいい。大きめのアサリが指に当たった時の感触がたまらない。ただし、爪や指先の保護のためゴム引きの手袋は欠かせない。指先の感覚で探るから、できるだけ薄手で、耐久性のあるものを選ぶ。足元は牡蠣殻で怪我をしないように、川や磯遊び用に売られているマリンシューズのようなものが最適だ。

 アサリは、同じような大きさのものが集まって生息する傾向があるから、少し掘って小さなアサリしか出てこない所は次々にパスし、一つでも大きなアサリが出た所を集中的に探る。掘る深さはせいぜい手首くらいまで。下ではなく横方向に堀り広げて行く。

 手付かずの場所を探るのが鉄則だが、なかなか結果が出ない場合は、誰かが広く掘った跡を更に広げるてみるのも一つの方法だ。広く掘った跡は、そこで実際に沢山採れた証でもある。また、誰もが敬遠したくなる堀り辛い場所を重点的に狙うのも効果的だ。

 一つの場所を堀り尽くしたら次を探す。場合によっては大きく移動する。その繰り返しを根気強く続ける。と言うよりも、むしろ夢中になり過ぎないように、同行者や周囲への気配りや、自分の体のケアを怠らないように注意する。実際に事故も発生しているので、特に子供には常に気を配らなければならない。

 1年生は来年以降のために残し、2年生以上(3センチ以上)のものだけを採取する。それでもプロ級なら大きなバケツに二杯、上級者で一杯、中級者以下でも小さなバケツに一杯くらいは採れる。アサリが枯渇することがないのは、その場所がまた来年まで海の底に沈むことによって自ずと守られるからである。

 潮が満ちて、人々が一斉に撤収する準備を始める頃、他の場所の収穫状況をチェックすることを忘れてはならない。採ったアサリは、水を抜いた状態で運搬すると身を傷めない。砂を吐かせるための海水はポリタンクに入れて別途多めに持ち帰る。

 持ち帰ったアサリは、ザルに重ならない程度に入れ、殻が隠れるくらいまで海水に浸かる状態にして新聞紙などを被せ、冷暗所でひと晩放置すれば砂抜きは完了する。

 確実に砂を吐かせるために採れた場所の海水を使い、吐いた砂を再び吸わせないため重ねずに横に広げ、吐いた砂がザルの下に落ちるようにするなど工夫を凝らす。これまでの苦労が報われるか徒労に終わるかは、この行程如何にかかっているから、決して手を抜かない。

 砂抜きが終わったら、アサリ同士を擦り合わせるように真水で入念に洗ってから調理する。直ぐに食べないアサリは、よく水を切ってそのままジップロックに入れて冷凍保存し、使う時に使う分だけ取り出して解凍せずにそのまま調理する。

 

 

 今年は、冬場の水温が異常に高く、風も吹かなかった。新型コロナウイルスによる緊急事態宣言も重なったため、残念ながらワカメもアサリもお預けだった。自然には敵わないから諦めるしかないが、その分、来年に期待する。

 

 

 自然の営みは、(人間が、身勝手な思い上がりによって壊してしまわなければ)人間の都合など一切無く、誰にも操作することのできない摂理に則って待った無しで繰り返される。だから、人間の側が自然のサイクルに合わせなければ、その恩恵に与ることはできない。人はそこで、全ては自分の、人間の思い通りにならないことを学ぶ。

 そして、その恵みを無駄無く戴くためには、多大な労力と、長い時間を費やさなければならない。私たちは、その行程を体験することによって、モノの価値の殆どが人の手間であることに嫌でも気付かされる。

 また、私たちが生きるために食べるもの、身となり、エネルギーを与えてくれるものは、水と塩などのミネラル以外、全て生き物から摂取している。つまり私たちは命を戴いている。更に、その命に込められた手間(価値)は、その手間をかけてくれた誰かの時間、つまり、その誰かの命の一部でもある。

 しかし、その顔も知らない誰かは、私のために命を削ってくれた訳ではない。その誰かは、自分のために一所懸命に働くことによって、結果として他者を支えてもいる。自分のために一所懸命に生きることが、他者を支えることにもなることに気付かされる。

 

 それは、学校で行われるどんな授業よりも大切なことを教えてくれる。

 それを知ると知らないとでは、同じ人生でも受け取り方が全く異なってしまう。

 いくら勉強が出来、金銭的、物質的に裕福な生活を手に入れても、それを知らなければ本当の意味で豊かに暮らすことはできない。

 逆に言えば、勉強などできなくても、贅沢などできなくても、それさえ知っていればどうにでもなるのだ。

 

 私たちは、産業や経済の発展とともに効率性や利便性を追求し続けた結果、知らず知らずのうちに、常に何かに急き立てられ、不必要なモノに溢れ、遊びの無い、寛容さとは無縁の生活を強いられていた。私たちは、多くのモノや便利さと引き換えに、それと同じ分だけ多くの何かを失っていたことに気づきはじめている。

 不幸にも、世界中がこのような状況に追い込まれ、多くの方が犠牲となり、多大な経済的損失を受けている。

 しかし、失ったものがあれば、それと同じだけの何かを得る機会が与えられ、その逆もまた然りである。また、一つの終わりが常に何かの始まりであり、その逆もまた然りであるのは世の常であることに変わりはない。

 この未曽有の、世界中をひっくり返すほどの衝撃がなければ、一旦立ち止まり、これまでの社会の在り方や、生き方を見直すことはできなかったであろう。

 今、私たちは、その機会を与えられている。そして、これまでの反省を踏まえて、それをこの先にどう生かすのかを試されているのかもしれない。

 

 

  そんな訳で、今年はらっきょう浸けと梅干に挑戦している。

 ちょうど今が時期なので、もしこの記事を読んでくださった方がいらっしゃったら、是非やってみてほしい。今だからこそやる価値ありだ。