スローな生活様式のすすめ(山の幸編)

 

 昔かららっきょうと聞いて思い浮かぶのは桃屋の花らっきょうで、甘酢が苦手だった私はそれが好きになれず、カレーライスに添えて出されてもこっそり残していた。

 今から10年以上前、既に還暦を迎えていたにもかかわらず、誰よりも多くの波に乗っていたガラさんに元気の秘訣を尋ねると、らっきょうを毎日食べていると教えてくれた。らっきょうが苦手だった私は、若さを保つのも楽じゃないなと勝手に思っていたのを思い出す。

 しかし、ある先輩のお宅で頂いた自家製のらっきょう漬けがサッパリして旨いのに驚き、また、沖縄出身の友人宅で酒のアテに出された島らっきょうがまた旨くて、オヤジになって味覚が変わったのもあるかもしれないが、すっかりらっきょうのイメージが変わってしまった。

 それ以来、泥らっきょうが店頭に並び始めると素通りできなくなり、あの味を目指して何度も挑戦した。しかし、どうやっても桃屋になってしまうので、ここ数年は酢漬け以外の食べ方をいろいろ模索している。

 先ず、島らっきょうと同じように、塩っぱくなり過ぎない程度に軽く塩で揉み、水で洗って水分を切り、それを鰹節と少しの醤油だけで食べてみた。味はいけるが辛味が強すぎて、調子にのって食べ過ぎたら腹の中が発酵して大変なことになった。

 そこで火を通してみると、シャキシャキ感は無くなるものの、らっきょう特有の風味はそのままに辛味だけが抜け、ニンニクのようにホクホクになった。そのままフライパンで炒ってもいいし、素揚げやてんぷらにしても美味く食べられることが分かった。

 スライスして炒飯に混ぜてもいいし、更に細く刻めば、少量なら麺つゆの薬味にしても美味しかった。ただし、らっきょうはあくまでも脇役なので、それだけのために油を使うのも面倒だし、なかなか大量のらっきょうを生のまま消費し切るのは難しい。

 ここ数年は、下ごしらえしたものを、一部を生食用としてそのまま保存し、あとは、軽く湯通ししたものをジップロックに小分けにして、キムチの素、浅漬けの素、あるいはビネガーとオリーブオイルでピクルス風に漬けるなどしていろいろな味を楽しんでいる。何れも冷蔵庫で保存し、漬物は数週間置いた方が辛味が抜けて食べやすくなる。

 余ったキムチの素は開封すると長期保存ができないので、傷んで安くなったセロリが入手できれば、それをキムチ漬けにすると楽しみも増える。胡麻油と味の素で味に奥行きを加えると絶品だ。

 生食用として保存しておいたものは毎晩3~4個を冷蔵庫から取り出し、大きなものは半分に切った状態でそのまま電子レンジで75°くらいに加熱し、あとは島らっきょうと同じように鰹節をまぶして少しの醤油で食べる。結局これが一番簡単で美味しいかもしれない。

 何れも比較的短期間で消費しなければならないが、この時期にしか味わえない楽しみとなっている。ただし、1日5粒くらいにしておかないと、次の日にオナラが止まらなくて大変になるので注意が必要だ。また、周囲に対する臭いにも気を使いたい。

 

 そんな訳で、今年はコロナ渦で時間もたっぷりあったので、久しぶりにらっきょう漬けに挑戦している。

 

 らっきょうは下ごしらえが最も骨が折れる。泥付きのものを水で洗いながら、一つ一つ根っこと先端を切り落として薄皮を剥くのだが、1~2時間、下を向いて立ちっぱなしの作業となる。また、手袋を使うと薄皮が剥けないので素手でやるが、丸1日臭いが取れない。薄皮剥きまで終わったら、粗塩をまぶして数時間置き、熱湯をくぐらせてから水分を切る。あとは、数週間塩水に浸けたり浅く浸けて辛味を抜き、丸1日かけて塩を抜いてから本漬けをする。

 下ごしらえの仕方や本漬け用の漬け汁のレシピは各家庭によって様々で、それによって味も大きく変わる。また、同じように作っても、ちょっとしたコツやタイミング、環境によって味も微妙に変わるので、お気に入りの味を参考にするなどして模索しながら自分の味を作ってゆくしかなさそうだ。年に一度しか試せないので気の長い話となるが、現在に伝えられている各々の様式は、そのような長年における試行錯誤の積み重ねで培った知恵や経験に裏打ちされているのだ。

 今年は漬け汁を変えて試してみることにした。ギョッとするほど砂糖を入れる甘酢ではなく、昆布ダシやゆずの風味が加えられた既存の調味酢をそのままの使ってみることにしてみたがどうだろうか。漬けあがりが楽しみだ。

 昨年の今頃、亡くなった父の葬儀の打ち合わせで逗子の夢庵に家族で集まったその帰り際、偶然居合わせたガラさんが声をかけてくれた。十数年ぶりに会ったガラさんは70代半ばであるはずなのに、当時と変わらずお元気そうだったのはやはりらっきょうのおかげだろうか。への字で入ってるから来なよと言ってくれたが、内心、への字だけは行くまいと決めた。何故なら、良い波は全部ガラさんが乗ってしまうに違いないからだ。まあ、それは冗談だが。

 

 先日、たまたま秦野の農産物直売所の前を通りかかり、らっきょうを物色するつもりで寄ったところ、傷ものの南高梅が1キロ350円という破格で売られていた。傷ものと言っても多少傷があるだけで漬けてしえば関係ないので、3キロを即買いして梅干に挑戦することにした。

 大きさも熟し具合も様々だったので分けて漬けようと思ったが、漬ける容器が一つしかなかったので一緒くたに漬けることにする。

 数時間水に浸し、水分をしっかり切ってヘタを取り、ホワイトリカーで殺菌し、容器に大き目で厚手の漬物用ビニール袋を被せ、20%の粗塩をまんべんなくまぶしながら入れ、できるだけ空気を抜いて口を縛り、梅酢の出具合を気にし、できるだけ空気を抜きながら冷暗所で漬け置き、全ての梅が梅酢に浸かった状態になったら梅雨が明けるのをひたすら待つ。梅を漬けること自体それほど難しいことではなく、カビないように細心の注意を払うことぐらいで、あとは時間に任せる。

 梅雨が明けたら、漬けた梅と梅酢を2~3日天日干しを行う。天候が安定し、晴れの日が続くタイミングを見計らい、日中は表に出し、夜は取り込む。それを3回繰り返すので、これが最も手間がかかる作業かもしれない。天日干しが終わったら、また元の梅酢に漬けて、秋ぐらいから食べごろを迎える。

 梅干は、人が加える手間よりも、時間が調理してくれるのを気長にひたすら待たなければならない。調理を初めてから美味しく食べるまで実に半年もかかることになるが、逆に考えれば半年以上楽しめるということでもある。

 

 梅を漬ける時期に降る雨を「梅雨」と呼び、適量であることを、梅を漬けるための塩の量に照らして「塩梅」と呼んでいることからも分かるとおり、梅干作りは昔から日本人の生活に根付いたものだった。日本人は、たったそれだけのことから多くのことを学びながら、ささやかに楽しんでいたのだろう。

 

 今や世の中は便利になり、頼んでから数分でありつけるファーストフードとは別次元の話である。その、面倒なことや醜いことを全て覆い隠してしまうファーストフードから私たちは何を学び、何を楽しむのだろうか。

 端正込めて育てた小麦を収穫して粉にする手間を体験し、大切に育てた家族同然の牛を殺すことから始めることによって、昔の人々は嫌でもその有り難みに気付かされてきた。私たちは、便利さと引き換えに、その機会を奪われているとともに、端正込めて何かを作る楽しみを捨てているのだ。

 コロナ渦の今だからこそ、コロナと共生するためだけではなく、これまで失ったものを取り戻す又とない機会に、私たちは直面しているのかもしれない。