障害者雇用の実態と社会の在り方について

 障害者、健常者と区別することは本意ではないが、社会の現状について語るにあたり、やむを得ず使用する。

 

 昨年の10月下旬、来月から障害を持つ非常勤職員を配置すると、事前に何の説明もなく一方的に通達された。

 既に配置されている非常勤職員が戦力として必要十分だったし、あまりにも唐突な話だったので、内心ふざけるなと思いながらも丁重に断った。しかし当方に選択権は無いらしく、その数日後、心に障害を持つ方が配置された。

 その方は、障害者雇用促進という名目で急遽採用された数人の内の一人であり、簡単な障害の状況が説明されただけで、丸投げされる形で着任した。

 それから暫くの間、職場は大いに混乱することとなった。 

 

 その方は、極端に融通が利かない傾向があり、言われた事だけを言われた通りにやってくれるのだが、それゆえに些細なことで躓いてしまい、仕事がなかなか進まない。そして、それを一つ一つ私に聞きに来るので、私の仕事も全く進まないこととなった。

 また、今日説明したことを明日以降も継続して行うことが苦手なようで、私は同じ説明を毎日繰り返さなければならなかった。

 依頼した仕事の精度も低いので、誰かが全てやり直さなければならなかった。

 その一方で拘りも強く、あれこれと要求も多かったので、その対応にも苦慮した。

 更に、その方は他者と適切な距離を保つことが難しいらしく、なかなか他の職員と良い関係を築くことができなかった。そして、執着されることを恐れて誰も助け船を出さないので、いつも孤立し勝ちだった。(実際、付きまとわれた他の部署の非常勤職員が1人辞めてしまった。)

 私自身、仕事が倍増する事については、障害者雇用の重要性を考えればやむを得ないと受け入れたものの、一方的に押し付けられたと感じていたので手を差しのべようとは思えなかったし、実際にそんな余裕も無かった。

 結局、複雑な作業や、顧客のデータに触れるような仕事を任せることはできないということになり、他の非常勤職員とも衝突するので、単純な作業だけを、そのための作業スペースを別途設けて、やってもらうことになった。

 そして、その方は間もなくして辞めてしまった。申し訳ないと思ったが、正直ほっとしてしまった。そして、これで良のだろうかと考えてしまった。

 

 先ず、障害者雇用を促進させようとする国も、実際に障害者を雇用する組織も、人を雇うということを簡単に考え過ぎなのではないだろうか。

 組織が人を雇うということは、その人の時間や技術や労力、つまり命の一部を提供してもらうことでもある。そして、それに対する正当な対価の支払いと、職場における従業員の心身の安全を守る責任を負う。

 つまり組織は、従業員の命を預かっているのであり、その責任を果たすために職場環境の整備を怠ってはならない。人を雇うなら、受け入れ体制を整えなければならないのは当然のことなのだ。

 それは、障害を持つ者を雇用するのであればなおさらのことで、設備面のバリヤフリー化は言うに及ばず、受け入れる側が、如何なる障害にも対応するための心構えや技術、緊急時における対処方法を知っておかなければならない。そうでなければ命に関わる場合もあるからで、例えば癲癇を持つ者が突然気を失うことがあることや、そうなった場合の対処方法を他の職員全員が知っていなければならないし、常に誰かが気付ける環境をつくる必要もあるのだ。

 また、多様な障害を持つ者と、共に働く健常者双方の心身の健康や、顧客に対する安全性にも配慮する必要がある。例えば、幻覚を見、幻聴を聞き、妄想を抱き、自分が感じていることを心の内に秘めておけない者とそうでない者が職場で共存し、顧客の安全や情報を守るための工夫や、適切な仕事の配分や持ち場の割り振りなど、するべきことは多岐に渡る。

 それにも関わらず、障害者雇用率2%以上達成するということだけを目的として、何の受け入れ体制も整えずに障害者を雇えば、職場が混乱するのは当然であり、それによって雇われている全ての者や顧客を危険に晒すことになるのである。

 

 そして最大の問題は、恐らく殆んどの企業や個人が、多様な障害を持つ者と健常者が共存するためのスキルを持っていないということではないだろうか。

 そうなる理由は、この国や社会の仕組みが、先ず最初に障害の有無によって二分されてしまうからであろう。そうする主な理由は、生産性、経済性、効率性を優先しようとするからではないだろうか。

 この社会の主流は、人間の尊厳よりも経済が優先され、圧倒的多数である健常者によって、健常者の利益のために、目まぐるしい速度で流れている。

 多くの障害者は、障害を負ったその時からその流れから弾き出され、全く別の社会の中で生きることを強いられる。

 そして、これまで長いあいだ別々の社会で生きてきた両者が、平等や自立というもっともらしい大義を今さら持ち出され、何の準備も無いままに、さあ一緒にやってくださいと言われても、上手く行かないのは当然なのだ。

 

 私の働く職場に来た方は、何も悪気があってそうしていたわけではない。自ずとそうなってしまうのであり、その状態がその人にとっては普通のことなのだ。ただ、自分の意思に関係なく、たまたま少数派となってしまったというだけで社会の主流から弾き出され、今さらになって、何もかもが凄い速度で進んで行く多数派の社会の中に放り込まれてしまったのだ。

 現場で働いている私たちは、たまたま重い障害を持たなかったというだけで、人間の尊厳よりも経済を優先する、もの凄い速さで進み、後ろを振り返る余裕もない社会に自動的に組み込まれている。そして、そんなものとは無縁の社会で生きてきた障害者を受け入れようとし、それでも速度を落とすことのできない流れの中で混乱しているのだ。

  

 そもそも、障害者雇用に関する法律の趣旨は、障害者の人権の保護や、障害者と健常者が共存する社会を実現するために、障害者が社会の一員として自立し、活躍する機会を提供することを目的としているらしい。

 立派な趣旨だと思うし、本来そうあるべきだろう。そして、実際はそうなっていないから、何とかしようとしているに違いない。しかし、後から取って着けたようなたった一つの法律だけで実現しようとすること自体が甚だしく的外れなのであり、当然の結果として誰のためにもなっていないのが現実なのだ。

 その立派な趣旨を実現しようとするならば、幼稚園や小学校から始まる社会の制度や仕組みそのもを、根本から変えなければならないだろう。

 全ての人間が心身の状態によって区別されることなく許容される、つまり、経済や多数派の利益のためではなく、一人ひとりの人間の尊厳を最優先に考える社会の仕組み作りやインフラの整備が成されなければ、その立派な趣旨や目的を達成することなど到底できないだろう。そして、一言に障害といっても、その種類も重さも様々であり、事はそんなに簡単な話ではないのだ。

 

 先ず、障害者、健常者といった分け方を止めるところから始めたらどうだろうか。

 完全な状態という幻想を抱くがゆえに、それに対して何かが足りない、何かが欠けているとなるのだろうし、経済を優先するがゆえに、何かを効率的に産み出せるかどうかによって人の価値が決められてしまう。

 しかし、人間が機械ではなく生き物である以上、完全な状態などというものは有り得ない。多様性があって当然なのであり、更に言えば、人間ほど不完全で危うい存在はないのだ。そして、各々の価値は、何が出来るか、何を産み出せるかによって決まるのではなく、その存在自体が、もって生まれたそのままの状態で、同じ価値を持っているはずである。人間ごときが、命の価値に優劣をつけること自体、思い上がりというものなのだ。 

 そして、誰もが似たり寄ったりの姿で生まれ、似たり寄ったりの姿で死んで行くのだから、相対的な比較における各人の違いは当然あるにしても、それはほんの一時的なものでしかない。

 多くを与えられた者は、いつかそれを失う時が必ず来るのだし、逆に、多くを与えられなかった者は、その分だけ成長する機会を与えられている。その意味で、誰もがその状態に関係なく平等とも言えるのだから。