自分と他者

 日本語では、私自身のことを「自分」ともいう。

 むしろその方が一般的だ。

 いつ、誰がそう決めたのかは知らないが、随分と昔の事に違いない。
 そして、何となくしっくりとこなかったので、勝手に解釈してみる。

 おそらく、物質的、或いは精神的な意味においても、自他を分かつ境界があって、そこから内側が自らの領域だから「自分」としたのだろう。

 そうであるなら、その境界から外側の領域を「他分」とするべきところ、あまりにも漠然としすぎてしまうから、自分以外の誰かという意味で「他者」としたのだろうと、勝手に納得する。

 昔の日本人は、分かっていたのだ。

 物質的には、皮膚という境界から内側が「自分」であり、その向こう側に在るのが「他者」であることは、物心さえついていれば、誰もが意識せずとも認識している。

 それは、目の前に見えている手や足が誰のものともわからない状態から、自らの意思と手足の動きが連動し、主に母親と触れあったり離れるなどの体験を重ねることによって、自ずと自分を「自分」として、他者を「他者」として認識をするようになってゆくからであろう。

 しかし残念ながら、実体の無い心の場合は、そう簡単にはゆかない。

 人の意識は、初めのうちは己が何物なのかさえ分からず、ただ漠然と感覚器から何かを感じ、どこからともなくやってくる欲求や感情にただ振り回されながら、無限の世界の中心に浮かんでいるようなものだろう。

 そして、他者とぶつかりながら己の大きさを知り、身近な人々から一人の独立した人間として尊重され、否応なくそう在らざるを得ない己の存在をそのまま認めてもらうことによって、自分はこれでいいのだと思えるようになり、それを何度も何度も確認しながら自分を受け容れ、確固とした自分というものを確立してゆく。

 それまで漠然としていた意識は、確固とした自分を確立することによってはじめて、目に見えない境界によって自他に分離する。

 そこではじめて、意識の中に「他者」が現れ、「他者」が「自分」ではないことを真に認識し、他者を「他者」して尊重し、認めることができるようになる。

 自分は、他者とは別の存在であるからこそ、他者に寄り添い、他者を支え、他者自身の立場に立ち、他者の目線から見た自分を想像することができるのである。

 少なくとも、私がそれを明確に認識できるようになったのは、恥ずかしながら随分と大人になってからである。

 思えば、それ以前の私は、暗闇の中でもがきながらも、とても多くの隣人に迷惑をかけてきたに違いない。
 できることなら謝ってまわりたいとさえ思う。
 そして、反省しつつも、そんな過去の自分を労ってもいる。

 今になって感じるのは、既にそうなっている中学生も居れば、まだ「自分の中だけで生きている」大人が如何に多いかということである。

 むしろ、「この人分かっている」と思える人は、稀にしかお目にかかれない。

 でも、昔の多くの日本人は、分かっていたのだ。

 現代の人間は、便利さや効率性を求め過ぎるあまり、多くのものを失ってしまったのかもしれない。

 それでもみんな、必死にもがいている。

 それも人間、それが人間なのだ。

 きっと。