人は自分を映す鏡

 

 私は、自分のことがよく見えない。

 

 この目に映っている自分の姿は、いまこの記事を打つためにパソコンを叩いている両手と、せいぜい視界の片隅の鼻の側面と太ももくらいなものだ。

 

 しかし、目の前に居る他人は、よく見える。

 

 私は、目の前の他者はよく見えるが、自分自身のことはよく見えない。

 そして、目の前の他者は、他者自身のことはよく見えないが、私はよく見えている。

 

 それと同じようなことが、心の中でも起きている。

 

 例えば私は、朝の通勤電車で毎朝繰り広げられる椅子取りゲームにうんざりなので、混んでいるときは座らないことにしている。

 そして、いい大人が朝っぱらから何やってんだと、席を奪い合う人々を見ながら、心の中で蔑んでしまう。

 

 でも本当は、私も座りたいのだ。

 私も座ってぐっすり寝たい。

 座っている人が、羨ましくて仕方ないのだ。

 

 そして、本当は人を押し退けてまで座りたいと思ってしまう自分のことを醜いと感じ、そんな自分が許せないから、我慢して立っているのだ。

 

 もし私が、そんな自分に対して何も感じていなかったり、そんな自分を許していたら、目の前の人々を蔑むようなことはできないはずである。

 

 私は、人を押し退けてまで座りたいと思う自分を醜いと感じ、そんな自分を否定しているから、それをやってのける人を見て醜いと感じ、否定しようとしてしまうのだ。

 更に、自分がしたくても我慢しているから、許せないのだ。

 

 しかし、その人は、外から見たらわからないが、どこか具合が悪くて、やむを得ずそうしているのかもしれない。

 二日酔いで、とても立っていることができないから、やむを得ずそうしているのかもしれない。

 もしかすると、その椅子取りゲームを楽しんでいるのかもしれない。

 

 私の目の前に居る人々は、私と同じとは限らない。

 その人が、なぜそうしているか、何を思っているかなど、私には知るよしもないのだ。

 

 私は、その人々の姿や行動の中に、認めたくない自分の本当の姿を見ていたのである。

 

 本当の自分は、他者を通してしか知ることができないのかもしれない。

 そして、本当の自分の姿は、他者の目線に立って想像するしかないのだ。

 

 人間とは、何と不自由な存在のかと、愕然とする。

 

 そろそろ、そんな自分を許してやろうと思う。

 

 そして、朝の椅子取りゲームに、私も参加するのだ。