あれから9年の歳月を経て、もやもやした気持ちが少し整理できたので、着地点を決めずに書き始めてみる。
先ず、あの震災で、大切な人の無事を願いながら、無念にも命を落とされた方々、親と離ればなれにされ、ひとりぼっちで冷たい海に流されていった子供たち、そして、まだ生まて間もなかった赤ちゃんへ、心から、ご冥福をお祈りいたします。
そして、大切な人を亡くされた方々、それまで生きて来られた証を全て失った方々、いつでも懐かしく迎えてくれる生まれ故郷を永遠に奪われた方々へ、心から、お見舞いを申し上げます。
福島第二原発における、日本史上かつて例を見ない大規模な人災を目の当たりにして、思うところが沢山あった。
原発は危険である。
危険だから、地方の人里離れた場所に置かれ、それを受け入れる自治体にお金を払っている。
ひとたび事が起これば、取り返しがつかないことになる。
そして、絶対の安全などあり得ない。
そんなことは、本当は、誰もが知っていた。いくら政府や東電が安全だと嘯いても、そんなはずが無いことは、誰もが薄々わかっていたのではないだろうか。
そして、事は起きてしまった。
電源が無くなった。たったそれだけの理由で、原発は制御不能となった。
さらに、まるで掘っ立て小屋を思わせる「建屋」。
安全をうたっていた割には、あまりにも脆弱な危機管理体制と、あまりにもお粗末な設備。
想定外・・最悪の事態を想定していなかったのか。いや、想定してはいけなかったのかも知れない。
最悪の事態を想定すれば、当然、そんなに危険なのかということになるだろう。想定すること自体がタブーでさえあったのかもしれない。
事の重大性を考えれば、想定外など許されるはずがないのに。
人はそこに近づくことすらできなくなった。その脅威の前で、人間はあまりにも無力だった。
最悪の事態を回避するというもっともらしい理由で、放射性物質が撒き散らされた。
幾つもの町や村から、人々が消えた。
多くの人々が突然故郷を追われ、永遠に戻れなくなった。
何の予告も無く、これまで生きてきた証を、自分達のルーツを、そして命を奪われた。
決してお金では償えない大切なものを、その土地を追われた住民一人一人から、奪ってしまったのだ。
もし原発が、最悪のシナリオを想定して造られ、運営されるならば、莫大なコストによって、とてもとても、事業としては成り立たないだろう。
そう。そのかけられるべきコストは、東電という企業が利益を得るために、カットされたのだ。
利便性、経済性という名のもとに、決してお金では償えない大切なものが、コストとして切り捨てられたのである。
そして、全ての原発が停止した。
全ての国民が、不便さを強いられた。
それでも、その不便さを受け入れれば、原発無しでもやっていけることがわかった。
日本は、原発を廃止し、利便性や経済性よりも国民一人一人の命や生活を大切にする国となる機会を得た。
そして、そうすることが、故郷を追われた方々一人一人から奪った、お金には代えられない部分に対する償いでもあった。
しかし、そうはならなかった。
原発事故の被害者の苦しみや悲しみは、どこにも生かされなかった。
それどころか、もう一度踏みにじられた。
多くの人々が、失望した。
多くの人々が、この国の国民として誇りをもって生きることを諦めた瞬間でもあった。
営利企業は出資者のものであり、それは、利益を追求することを最大の目的として存在する。
そして、この国の経済が企業の営利活動によって成り立っているならば、原発続行という政府の決断は、資本主義的には正しかったのかもしれない。
しかしそこには、「人々のため、消費者のため、国民のため」という行が全く無いのだ。
国と経済は密接な関係にあるとしても、一体であってはならない。
資本主義は、消費者のための仕組みではない。それを調整するのが国や政治の役目ではないのだろうか。
人道的な支援は、専ら、数少ないNPOや、ボランティアの活動によって、細々と支えられているに過ぎない。
果たして、本当にそれでいいのだろうか。
行き過ぎた資本主義に未来は無いと感じる。
何故なら、それは多くの人々のためのシステムではなく、一部の起業家、投資家のためのシステムでしかないからだ。
企業の第一目的を、利潤の追求ではなく、社会貢献にしたらどうだろうかと思う。
そこまでしなくとも、利益に応じた社会貢献活動を義務付ける。たったそれだけでも、この国は、だいぶ変わるのではないだろうか。
たとえ、それによって企業の利益が減り、税収が減ったとしても、カネを稼ぐことだけではなく、稼いだカネによって社会に貢献することに頭を絞れば、他にやりようはいくらでも見つかるはずなのだ。
他者を貶めれば、自分を貶めることになる。
他者を大切にすれば、自分に誇りを持つことができる。
他者を大切にしながら、自分に、自社に、自国に誇りを持って生きることができたら、その国の国民は、例え経済的には貧しくとも、心は豊かであるに違いない。
そんな日が、いつかくればいいと思う。