コロナウイルス

 

 新型コロナウイルスと名付けられた未知の目に見えない脅威があっと言うまに世界中に拡がり、多くの犠牲者が出ている。

 これは、まだこれからどうなるかわからない。もしかしたら、まだ始まったばかりなのかもしれない。だから、今語るべきではないかも知れない。そう思っている。

 

 しかし、この未曽有の危機に際して、気づいたことがあったので、書いてみる。

 

 組織の存在意義は、誰のために、何のために、何をするかというところにあり、それは、その組織の理念や使命として最上段に掲げられる。そして、それは言わばその組織の憲法のようなものである。

 組織は人の集まりで構成されるため、一部の組織には法律行為を行うために人格が付与され、法律行為に先立つ意思決定機関が設置される。

 そして、その意思決定機関による全ての決定事項は、その理念や使命に則していなければならない。むしろ理念や使命があるから、それに向けて成すべきことが自ずと導き出される。

 更に、その意思決定機関の構成員は、その決定事項に対する責任を負い、その重責を担うための責任能力と決断力が求められる。

 

 ここにわざわざ書くまでもないことである。

 しかし、そんな当たり前と思っていたことが、国の運営には当てはまらないような気がしていた。

 

 この国の理念や使命は、いったい何処にあるのだろうか。誰のために、何のために、何をしようとしているのだろうか。

 この国の意思決定機関の構成員は、その決定に対する責任を引き受ける覚悟があるのだろうか。そして、その重責を担うだけの能力と決断力があるのだろうか。

 その重責を、重責として認識しているのだろうか。

 そんな疑問が常にあった。

 そして、このコロナウイルスに対する国の対応を受けて、何となく分かった気がした。

 

 

 何の根拠も示されない唐突な発表。

 そうかと思えば、責任回避としか思えない「要請」の連発。

 

 国民は、大いに振り回された。

 そして、丸投げされたことに困惑した。

 

 そうだったのか。

 私は、国が国民を危機から守ってくれるものだと、勘違いしていたらしい。

 この国の長は、自らが決めたことの結果に対して責任を負いたくても負えないことに、私は気づいていなかったのだ。

 

 

 耳を疑うような報道が相次いだ。

 

 

 経済対策として、和牛の商品券、旅行のクーポン、イベントのチケットを配布。

 経済的な打撃を受けている事業者を救済するために、消費者の消費を促す目的。

 

 今、その消費を促されようとしている消費者であるところの国民は、命の危機に晒されている。

 自分や大切な家族の健康と生活を守るのに必死でいる。

 そのための、たった一枚のマスクさえ、買えずにいるのだ。

 

 それなのに、何故、今、和牛なのか。

 旅行?イベント? 

 もう言葉も出ない。

 そして、それが堂々と発表される。

 

 そうか。

 私は、国が国民のために存在するものだと、勘違いしていたのだ。

 国は、国民の生活よりも、経済を優先するものなのだ。いや、経済を優先することによって、国民を守ろうとしているに違いないのだ。

 

 

 各家庭にガーゼマスク2コ配布。

 

 もはや想像力の欠如としか思えない。

 もう言うことは何もない。

 

 いや。

 それが、いま国にできる精一杯の対策なのだ。

 届いたら、有りがたく使わせてもらわねばなるまい。

 

 

 私は、国に対して多くを求めすぎていたのかもしれない。

 この未曽有の危機に直面しているのは、政府も同じなのだ。

 この国の長も一人の人間だ。自分の発言に対する影響の大きさに尻込みするのも無理からぬことだろう。

 そして、この国の財政で、全ての国民の損失を補うことなどできるはずがないのだ。

 

 コロナウイルスによるこの危機が起きたのは、この国の責任ではない。

 政府が助けてくれるのをただ待って、それで死んでしまったら身も蓋も無いのだ。

 やはり、自分の身は自分で守らねばなるまい。

 自分の責任において、この国に住むことを選び、この仕事で食べて行くことを決めたのだから。

 

 そう思うことにしようと思う。