その道を進んで行くと、時々、目の前に壁が立ちはだかる。
その壁の高さは様々だが、決して登れない程ではない。
その壁の上に行くことは以外と簡単だが、そこに居続けるのは、けっこうしんどい。
その壁は、避けて通るのも自由だし、登ってみて辛ければ降りたっていい。
しかし時には、ある壁の上に居なければならないことや、自由に降りることができない場合もある。
その壁を登り、そのしんどさと向き合っていると、そこに居ることが当たり前になってくる。
更にその先へ進んで行くと、また壁が立ちはだかる。そしてよく見ると、その壁の上にもまた壁がある。
一つ先の壁の上はぼんやりと見えるが、二つ先の壁の上がどうなっているかは、想像すらできない。
それが随分と先まで続いている。
ただ、エンドレスではなさそうだ。
壁を一つ一つ登って行くと、だんだんと視界が開けてくる。
上へ行くほど見晴らしが良くなり、自分が歩んできた世界を見渡すことが出来る。
また、その中で自分がどの辺に位置しているのかが分かるようになる。
やがて頂上が見えてくる。
数えきれないほどしんどい思いをした者だけが、そこに辿り着くことができる。
そこにたどり着いた者だけが、そこからの景色を眺めることができる。
そこまで来れば、恐れるものは殆どない。
壁とはもちろん困難や試練の例えである。
それは、生きている限り、確実に、しかも次々と現れる。この世の中は、否応無くそうなっている。そして、決してそこから逃れることはできない。
生物の体は、特別な何かをしなくとも、勝手に大きくなる。
勝手に様々な機能が発達し、命を守り、それを繋げるようになってゆく。
それは、「生長」である。
それに対して、困難と向き合い、それまで困難であったことが困難ではなくなることを、私たちは「成長」と呼んでいる。
困難を克服するのは決して楽ではない。
しかし、それは克服するまでの一時のしんどさであり、そこを通り過ぎて振り返ってみれば、大したしんどさではなかったことに気づく。
そのようにして、次々と現れる困難を克服しながら成長し続けることによって、人は高みに立つことができる。
高みを目指さなくとも、日常生活の中には、ちょっとした壁が次々と現れる。ちょつと苦手だ、ちょつと面倒だ、そんなちょっとした壁も、逃げてしまえば壁であり続け、片付けてしまえば壁ではなくなる。
その壁があまりにも高ければ、逃げることが必要かもしれない。逃げて逃げて逃げまくって、体勢を整えて、準備をして、一度で無理なら何回かに刻んで、また向き合えばいい。
壁から逃げてしまうと、その壁は必ずまた目の前に立ちはだかる。
壁から逃げてしまうと、その壁から逃げ続けなければならない。
そして多くの場合、あからさまに逃げるようなことはしない。
自分を偽り、他者に偽り、様々な言い訳を用意し、或いは茶化すなどして困難と真剣に向き合うことから巧みに逃げようとする。
そして、成長しないまま、弱く空っぽの心の外側を何かで塗り固めながら、それまで避けてきた幾つもの壁から逃げ続けなければならない。
そして最終的には、それまで逃げてきた壁に行く手を阻まれ、行き場を失ってしまう。
また、物質的、身体的に与えられたものが多ければ、その分だけ精神的に成長する機会は失われ、逆に、物質的、身体的に与えられたものが少なければ、その分だけ精神的に成長する機会が与えられる。
その意味で、物質的、身体的に恵まれている者とそうでない者は平等だと言える。
そして、その与えられたモノは、いつか必ず失われる。
成長という観点から考えれば、その与えられたモノにしがみつくのではなく、与えられたコト、与えられなかったコトをどう捉え、どう活かすかにかかっている。
壁は、小さなものから大きなものまで、そこらじゅうに転がっている。
誰もその状況から逃れることはできない。
そして、その壁から逃れたければ、登ってしまうしかないのだ。
壁は一つ一つしか登れない。
でも、一つずつなら登ることができる。
しんどいのは一時だ。
もう、壁から逃げながらこそこそと生きるのはやめて、正面突破して堂々と生ることにしようと思う。