感情や欲求は、学習や経験によって習得するものではない。
それはらは自発的に呼び出せるものではなく、何処からともなく現れる。
それらは、私たち人間を含めた全ての動物に予め備えられている強い衝動、つまり本能である。
動物は単独で命を繋ぐことはできない。
集団の中の厳しい生存競争を勝ち抜きつつ、時には警戒心を解き、助け合い、心を通じ合い、親密になり、また、苦痛を和らげるために喜怒哀楽が備わっている。
そして、種を繋ぐため、自らの命と、繋いだ命を守るために、欲求が備わっている。
それらは、人を含めた全ての動物を、強く衝き動かそうとする。
それに抗うことができない動物は、何の疑いを持つこともなく、本能に衝き動かされるままに、ただただ受動的に生き、命を繋ぎ、寿命が来れば死んでゆく。
しかし人は、自分を自分として認識することができるようになってしまった。
自分を自分として認識することによって、自分という主体を獲得してしまった。
自分という主体を獲得したことによって、意思を持ってしまった。
意思を持ったとによって感情や欲求に抗うことができるようになってしまった。
感情や欲求に抗うことにより、自分をコントロールし、成長することができるようになった。
他方、自分という主体が曖昧な者は、感情や欲求に抗いきれないことに罪悪感を感じるようになってしまった。
そして、自分という主体と意思を獲得し、能動的に生きることができるようになった人間は、生きることに疑問を持つようになってしまった。
自分は何のために存在するのか。
自分は何のために生きるのか。
自分が能動的に存在するために、能動的に生きるために、目的や意味を必要とするようになってしまったのだ。
そして、その目的や意味を見出せない者は、苦悩することとなった。
しかし、その生物が、そこに存在し、生きていることに意味などあるのだろうか。
もしそこに意味があるとするなら、それは、その生物を創造し、生かし続けようとした「何か」のみが知ることであり、そんなことは、その生物にとって知るところではない。
生物たちは、ただそこに存在し、ただそこに生きている。それ以上でもそれ以下でもない、それだけのことなのだ。
それは人間だって変わらない。
人間だからといって、何か特別な意味がある訳ではない。
生きる目的が必要なら、各々が勝手に決めればいいことである。
そこに何らかの意味が必要なら、後付けで如何様にも付ければいい。
しかし、私たちが存在し生きている根源的な意味など、人間ごときの知る由もないことなのだ。
私たちは勘違いをし勝ちである。
人間は、どれだけの発展を遂げたか知らないが、蟻一匹創ることができない。
何もないところから生命を創ることなど、人間にはできないのだ。
生命を創ることさえできない人間ごときが、自らの命を含め、その生命を創った者でもない人間が、その意味を論じること自体、思いあがりというものだ。
だからと言って、それを粗末にしていい訳ではない。
意味が無いなら、放棄していいという訳ではない。
自分の命は、自分で創ったものでも、自分で買ったものでもない。
全く別の場所、全く別の時間に生まれた両親が、各々が与えられた環境で育ち、各々が自分で決められることを自分で決めながら生きてきた過程で必然的に出会い、その結果として、「この」自分は必然的に存在している。
「この」自分の命は、地球に生命が誕生して以来、その営みが一度も途切れることなく連綿と受け繋がれた結果として、与えられたものである。
これまでの気の遠くなるほどの過程や選択が、一つでも違っていたら、1ミクロンでもずれていたら、「この」自分は存在すらしなかったのだ。
「この」自分の命も、自分以外の一つ一つの命も、他の何物にも代えがたい、比較する対象すら無いほど価値あるものなのである。
それを粗末にし、放棄していいはずがない。
そこに、私たちが生きるべき理由がある。
生きる事前の意味など無い。
生きる意味があったかどうかは、死ぬ間際にならなければ分からない。
それを意味あるものにするかどうかは、自分次第なのだ。
他者の命に意味を与えてあげたいなら、そうしてあげればいい。
そして、生きるべき理由はある。
生きる意味など無い。
しかし、生きる理由はある。
私はそう考えて、生きようと決めた。