ソーシャルディスタンス

 

 新型コロナウイルス感染拡大の防止策として、ソーシャルディスタンシングという言葉がすっかり定着した。

 

 人々が並ぶ場所には人ひとり分の間隔を空けるように目印が貼られ、外食店の座席も間引かれ、客も疎らでがらんとしている。

 人混みはうんざりだが、街中がここまで閑散としていると、背筋が寒くなる。

 

 私が常日頃から気になっていたのは、ソーシャルディスタンシングではなく、ソーシャルディスタンスの方である。

 

 ズラッと小便器が並んだトイレで用を足していると、ガラガラであるにも関わらずわざわざ隣に立つ人。

 公衆浴場の洗い場で、二人しか居ないのにわざわざ隣に座る人。

 空いている電車の車内で、わざわざ隣に座ろうとする人。

 夜道で、すぐ後ろを一定の距離を保つように歩く人。

 電車を待っていて、横の列が空いているのに、すぐ後ろに立つ人。

 

 決して何かされるとは思わないが、不快なのだ。

 

 その人は、おそらく何も考えていないのだろう。自分の行動が、周囲から見たら不自然であるとは感じていないらしい。おそらく、その人の目に私の姿は映っていても、意識の中に私は居ないのだ。

 

 心を許し合う仲ならまだしも、赤の他人が用もなく必要以上に近づけば警戒するし、何よりも気味が悪い。今はこのご時世だけに、余計にイラッとする。

 

 私の気にしすぎかも知れないが、人間同士の関係の中では、物理的にも心理的にも、互いに快適であるための適切な距離というものがあると思う。

 

 その距離とはいったい何なのかと考えてみる。

 

 人間には意識というものがあり、それが自分を包んでいる。そして、それが目に見えない心の肌のような幕に覆われ、その心の肌が内側と外側を隔てている。

 感覚として、そのように思える。

 

 そして、親密な関係であれば、互いの肌が触れ合っても気にならないのと同じように、心の肌が触れうほど近付いても不快に感じることはない。

 しかし、赤の他人と肌が触れ合えば不快に感じるのと同じように、心の肌が触れ合うほど近付けば警戒し、不快に感じる。だから通常、他人同士は必要以上に近付こうとはしないし、一方が近づこうとすれば、他方は離れようとする。

 

 その、自分を包んでいる意識の大きさは人によって様々で、その時々によっても変化する。心が大きくなったり小さくなったような気がする経験は誰にでもあると思う。

 大きなトラックに乗れば気が大きくなり、軽自動車に乗れば気が小さくなるように感じるのは、それによく似ている。

 

 その意識を覆っている心の肌も人によって様々であり、丈夫な人、弱い人、尖ってる人、柔らかな人、固い人、厚い人、薄い人等々、その人の心の育成環境や、成長成熟の度合いによって異なる。

 それは、生身の体と同じように、他者の意識とぶつかり合って凹んだり、傷ついたり、壊れたり、気圧されたりする。 

 

 強いからそのままで居られる人。

 弱いから虚勢を張らずにはいられない人。

 そのままで居ることができないから鎧を纏わずにはいられない人。

 大きすぎる意識の周りを頑丈に武装して周囲に当たり散らす人。

 小さ過ぎる意識によって他者の意識に押し潰されそうな人。

 他者の意識とぶつかり合うことに堪えられず、引きこもるしかない人。

 その人の意識の大きさや心の肌の状態は、外見や行動にも如実に表れる。

 

 心の肌は、生身の肌と同じように、自分を他者から守るために、自分と他者を分かつために、自分が自分であるために無くてはならないものだから、おそらくそれが無ければ人は生きて行けないだろう。

 

 心の肌がまだ曖昧なうちは、自分と他者の区別が上手くできないから、他者を他者として認識できなかったり、不用意に他者の領域を侵したり、逆に離れすぎたり、他者を、自分とは別個の存在として尊重できなかったりする。

 そうなると、子供同士ならまだしも、成人した人間社会の中では、適切な距離感や関係性を保つことが難しくなる。

 

 互いに快適であるための距離とは、自分の心の肌と他者の心の肌が触れ合う距離であり、心の肌が曖昧な人は、不用意に近づこうとする。

 

 そのように、勝手に結論してみた。