清原について想うこと

 

 私が現役時代を知る野球選手で最も才能に恵まれていたと感じるのは、ダントツで清原だ。

 清原を初めてテレビで見たときの衝撃は今も忘れない。ほんの数ヶ月前まで中学生だった高1の夏の時点で、そのままプロで通用するのではないかと思うほど突出したパワーと完成度を誇っていた。その後も数々の名選手が世に出てきたが、その点において清原に並ぶ者は見当たらない。同年代だけに個人的な思い入れはあるが、それを差し引いても別格だと思う。

 それだけに、清原が覚醒剤の使用によって逮捕されたのは、とても残念だった。

 予感が無かった訳ではない。だから驚きはしなかった。

 少しづつ、でも誰の目にもはっきりと分かるほど、清原の風貌や態度は変わっていった。その変わりゆく清原の姿を見て、必然的にそうなってしまったのではないかと思えてならなかった。

 なぜそう思ったのか、自分の気持ちを整理してみた。

 

 彼は、恵まれた体格と、類い稀なる野球センスを、生まれながらに持ち合わせていた。

 彼の体は、他のどの選手よりもずば抜けて大きかった。そしてただ大きいだけではなく、野球をするために必要なもの全てを兼ね備えていた。

 彼が野球を始めるのは、必然だった。

 彼は、野球を始めて直ぐに頭角を表した。

 他の選手の幼さがまだ抜け切らない頃、彼だけは既に大人顔負けの野球をやっていた。

 彼が同世代の中で野球をすることは、大人が子供たちの中に混じって野球をするようなものだった。当然、その世代の中では無敵だった。

 彼は周囲の大人たちからも注目を集め、ちやほやされた。不出世の逸材、球界の宝として大切に大切に育てられた。然したる躓きもなく、当然のように頂点へ登り詰めた。

 彼は、そのままで最高の野球選手だった。

 彼は、並の選手が死に物狂いで努力しても決して立つことができないところに、既に立っていた。或いは、少しの努力によって、そこに立つことができた。

 彼には、自らに試練を課す必要性などどこにも無かった。そして、彼に試練を与えることができる他者も、側には居なかった。

 並の一流選手であれば、ステップアップする度に、その洗礼を受ける。

 それまでのレベルで頂点に君臨していた者も、その都度、また一年生からやり直しとなる。そしてレベルも違うから、謙虚になる。

 新参者を潰しにかかる先輩や、これまで築き上げてきたものを否定しようとする指導者もいる。

 そして、そのレベルで生き抜くために、そのレベルの頂点に立つために、死に物狂いで努力する。

 しかし、彼はどのレベルに在っても、段違いの力を持っていた。

 だから、ステップアップしても当然のように1年目から活躍し、その実力で周囲を黙らせた。

 そして、彼の野球人生における最後のステップとなるプロの世界に入っても、それは変わらなかった。

 

 その状況下で、いったい誰が、死ぬほどの試練を自分に課すことが出来ただろうか。

 いったい誰が、死ぬほどの試練を彼に課すことが出来ただろうか。

 そして、人の心と体が困難を乗り越えることによってのみ成長することが出来るとしたら、彼は、身体的に恵まれ過ぎていた分だけ、心の成長する機会を失っていたのではないだろうか。

 

 若くしてその世界の頂点に立ち、その実力で周囲をねじ伏せてきた彼の態度は、必然的に横柄になっていった。

 彼は、まさに王様だった。

 恐れるものなど何もなかった。

 彼にとって、超一流の野球選手であることは当たり前だった。

 超一流の野球選手であることによって、彼の心の平静は保たれていた。

 超一流の野球選手であることが、彼が彼で居られる唯一の支えだった。

 いつの間にか彼は、超一流の野球選手であることに、しがみついていた。

 しかし、いつか必ず終りはやって来る。

 年齢を重ねるにつれて、体が思うように動かなくなった。

 台頭してくる若手に対して、彼はその苛立ちを隠さなかった。

 相手を見下し、威嚇し、暴言を吐くようになっていった。

 

 一流の選手になるために、自分に足りない部分を補うために、この世界で生き抜くためにどうするべきかを考え抜き、コツコツと、時には気絶するほどの努力を積み重ねた者は、その努力に裏打ちされた確固たる理論を持っている。それは、その人の身となり財産となる。歳を重ねるほど体は衰えるが、体の衰えはその財産によって補われ、心も満たされる。

 しかし、気絶するほど努力する必要など無かった彼には、そのような財産は無かった。

 彼の成績は、体の衰えと共に容赦なく落ちていった。

 彼の心を満たし、彼を支えていた、超一流の野球選手であるというコトは、次第に失われていった。

 彼は、成長できなかったがゆえに弱く、空っぽになりつつある自分を保つために、外側から塗り固めるように体を鍛え上げ、まるで格闘家のような風貌になっていった。

 彼の体は、野球をするための体ではなくなり、成績は落ちるばかりだった。

 それまで彼の心を満たしていた、彼を支えてきた、超一流の野球選手であるというコトが、消えてしまった。

 空っぽになってしまった彼の心は、何をもってしても埋めることはできなかった。

 それを見透かすように、彼を利用しようとする者が現れた。

 彼を取り組く環境は急速に悪化し、裏社会とも繋がるようになっていった。

 彼は、その気になればいつでも薬物を手に取ることができる環境に置かれていた。

 命よりも大切な家族と離れた耐え難い苦しみが、彼を更に追い詰めた。

 もう、生きているのがやっとだった。

 心の空虚を埋めることができなくなった彼は、それでも生きるために、薬物にすがるしかなかった。

 薬物を使っている間だけ、彼は現実と向きき合わずに済んだ。

 そして、自分の意思ではどうすることもできなくなっていった。

 

 これは私の勝手な想像に過ぎない。

 私は、清原のことを何も知らない。

 しかし、清原が持っていた類い希なる野球センスと身体的能力の高さは、誰もが認めるところであろう。

 そして彼は、まだ幼い頃から、否応なく、その状況に置かれていたのも、おそらく事実であろう。

 そんな、野球をする者にとって夢のような状況に置かれたら、いったい誰が、死ぬほど努力をして、精神的に成長することができただろうか。

 いつも彼だけレベルが違いすぎて、同じ悩みを共有する仲間もきっと居なかったであろう。清原は、多くの人達の中に居ながら、常に孤独だったに違いない。

 もちろん清原が法律を犯したことについて擁護するつもりはない。

 しかし、もし私が想像するような状況だったとしたら、いったい誰に、清原を責めることができるだろうか。

 

 もし清原が、死ぬほどまでと言わずとも並の選手程度の努力さえしていたら、少しでも努力する余地が残されていたら、もとんでもない選手になっていたに違いない。

 決して無冠の大器に終わるようなことはなかったであろう。

  

 清原は、今も薬物依存と戦っていることだろう。

 清原のことを本当に心配している人は沢山いる。その筆頭に挙げられるのは、やはり桑田かもしれない。

 体格に恵まれなかった桑田は、清原の一番近くで、清原とは真逆の野球人生を送っている。それだけに、野球人としての清原を誰よりも理解出来るのは桑田を置いて他には居ないのだから。

 これからは、そんな人々に囲まれて生きてほしい。

 もう超一流の野球選手である必要はない。

 もう虚勢を張る必要もない。

 厳つい鎧を着なくてもいい。

 弱くても、醜くてもいい。

 人間とは本来そういう生き物なのだ。

 だから、そのままでいい。

 みんな、そのままの清原が大好きなのだから。

 そして、もし子供達と一緒に暮らすことが許されるなら、子供と一緒に生き直してほしい。

 子供はかつての自分であり、自分がこれまで辿ってきた道を見せてくれる。

 子供を、自分の命を捧げても構わないほど価値ある存在だと思うなら、自分だってそうなのだ。

 まっさらな状態で生まれてきたのは、子供も自分も同じなのだから、自分がいまこうなってしまったのは、必ず理由があってのことなのだ。

 子供が持つ美しさや醜さ、逞しさや弱さは人間の本質なのだから、それは自分だって同じなのだ。

 そして、かつての自分と一緒に成長する過程を辿ることができたら、それが一番いいに決まっている。

 

 清原がそのままの自分を受け容れ、自分の価値を知り、その価値ある自分自身の成長のためにエネルギーを注ぐことができたら、その過程で中身の詰まった確固とした自分が出来たとき、もう何かに依存する必要は無くなっているだろう。そして、心の中に現れるもう一人の自分が、過ちを犯そうとする自分を制してくれるはずなのだ。