国を動かしているのは内閣である。
内閣の構成員である閣僚は、各省庁の名目上のトップである。
各省庁には極めて厳格なヒエラルキーが存在し、その運営側の事実上のトップは官僚である。
閣僚はその道の精通者ではないから、官僚の影響力は極めて大きい。
その官僚の多くはキャリアである。
キャリア官僚は、頭脳はすこぶる切れるが、始めからそのピラミッドの極めて上部に居続けるために、その頂点を支えている下部組織の実態を何も知らない。
国民と繋がっている末端の下部組織も、運営上の綻びを見せられない(うまく運営できていないなどとは決して言えない)から、本当のことは言わない。
国民と繋がっている現場を知らない、国民の実態を何も知らないキャリアたちが、その省庁を動かしている。
その省庁の運営上の決定は、国民と繋がっている下部組織の状況などお構いなしに、問答無用で丸投げされる。
その現場と国民は、そのチグハグな、誰のためとも何のためともつかない問答無用の決定によって、振り回される。
閣僚が、国民の実態を知らない官僚の言いなりになることは、国民不在の国家運営が行われることを意味する。
国民不在の国家運営によって、そこでもまた国民は、誰のためとも何のためともつかない政治判断によって振り回される。
現在の国家運営は、一つの側面からではあるが、そのような構図になっているように思えてならない。
閣僚が、選挙によって国民に選ばれた者が就く意味は、民意を反映するところにこそあるのではないだろうか。
国家の運営に携わることになる官僚は、国民の実態を知り、国民全体の奉仕者として、その組織の使命を全うしてこそ、真の存在価値があるのではないだろうか。
もちろん、尊敬すべき閣僚や官僚も大勢いる。
何れも激務だから、命を削って職務に当たる姿には頭が下がる。
しかし、果たしてこの国の現状はどうだろうか。
報道されていることが全て真実とは思わないし、それが全てでもないだろう。
しかし、その政治判断が、政権のため、政党のため、経済のため、国家財政のため、選挙のためとして公然と世に放たれ、それに対して誰も意義を唱えることもなく、国民のためという一言が全く出てこない現状に恐ろしさを感じてしまうのは、もしかしたら私だけなのだろうか。
私は、人々の命や生活のため、国民のため、それが何よりも優先されるべきことだと、何の疑いもなくそう思っている。
だから、全くそうなっていないことに、とても危機感を抱いている。
全くそうなっていないのに、誰もおかしいと言わないことに、恐ろしさを感じてしまう。
もしかしたら、私がおかしいのかもしれない。