消費社会

 

 営利企業は、消費者のニーズをリサーチして、それに応える。

 

 営利企業は、消費者が求めるモノやサービスを造りだして、それを提供し、その対価を得る。

 

 営利企業は、そのモノやサービスが、消費者にとって本当に必要かどうか、消費者がそれを手に入れることが、その消費者にとって本当に善いことなのかどうかに関係なく、次々と消費者が欲しがりそうなモノやサービスを造り出し、様々な方法で消費者の購買意欲を刺激し、必要以上に消費させ、必要以上の富を得る。

 

 そもそも営利企業は、利益の追及を目的としている。そして、営利企業は出資者のものである。つまり営利企業は、出資者のために利益を生み出そうとする組織なのである。

 

 そして、その国の経済が、企業の営利活動によって支えられているのだとしたら、その国の政策は、自ずと投資家が潤う方向へと仕向けられる。

 

 残念ながら、その仕組みの中に「消費者のため」という行はない。

 消費者は置き去りにされているばかりではなく、命を削って稼いだお金の殆どを消費しなければならない。

 

 そのようにして、富は、より富のあるところへと集まってゆく。

 

 少し意地悪く、誇張して書いたかも知れないが、果たして言い過ぎだろうか。

 

 もちろん、それは消費社会の一側面でしかない。そんな単純な話ではないだろうし、その結果として消費者が得ているものも、もちろんある。

 

 また、本当に消費者にとって必要なものを提供し、消費者にとっての最善を考え、得た利益を社会に還元し、社会に貢献している素晴らしい企業も沢山あるのは知っている。

 しかしそれは、その企業の善意的な理念と、その理念に賛同する投資家達によって、例外的に支えられているのであって、NPOでもない限り、その根本的な仕組みは変わらない。

 

 そして、その仕組みは、人口が増加し続け、或いは消費者の収入が増え続けることを前提としているように思える。

 しかし、そんなことがあり得ないことは、誰もが分かっている。

 

 現に、人口は減り続け、収入を得ることができる世代も減り、更に、個々の消費者の収入も減っている。 

 もはや、経済はとっくに収縮に転じているのである。

 

 それでもまだ、企業が必要以上の利益を生み、それを出資者に分配し、経営者が贅沢な暮らしをし、更には国を支えるために、消費者は、無駄遣いをし続けなければならないのだろうか。

 

 大量生産大量消費。

 

 それによって、私たちは多くのモノと便利さを得たことと引き換えに、同じくらい多くの何かを失ってしまったのではないだろうか。

 

 そろそろ縮小することを考えなければ、社会そのものが、本当に費やして消えてしまうのではないだろうか。

 

 効率的に作られた、朽ちることを前提としたものを使い、捨て続けるのではなく、大切に長く使うことを前提に時間をかけて作られた、本当に必要なものを、必要な分だけ使い、それに感謝しながら生活し続けることができる仕組みを考えなければ、この社会に未来はないのではなかろうか。

 

 そのためには、私たち自身も、単なる消費者に成り下がらない覚悟が必要であろう。

 

 少なくとも、昔の日本はそうであった。

 そして、昔の日本人の心は、とても豊かであったに違いない。

 

 何も知らない素人が、勝手なことを言わせてもらいました。

 

 でも、本当に心配なんです。